cLi0nE37’s blog

心のゴミ箱

大人になって子供になる

大きくなった身体とは反対に心は子供に戻っていく。わかってほしい、許してほしい、認めてほしい、それだけで日々は構成されている。甘え方も頼り方も知らないまま大人になってしまった。

子供の頃に、きちんと子供をできなかった気がする。「大丈夫」というレッテルを親からも先生からも貼られていて、自分もそうだと思っていた、そうあるべきと思っていた。でも今ならわかる。そうではなかったし、そうあるべきではなかった。もっとワガママをしてもっと先生に怒られてもっと許されてもっと認められるべきだった。

遊んでこなかった人が大人になって悪い遊びを覚えてしまうのと同じように、何処にも居場所がなかった欲が今になって溢れ出てきて、私の意思とは反対に心は胎児化している。

だいぶ前に友達の親と自分の親の違いを考えたことがある。その時に答えは出ていた。親は私達と対等な関係を求めていた。私が何かを悪さをしたら親は私に同じ仕打ちをした。私が不機嫌な態度を取ったら親はお金を払ってくれなくなった。何か失敗したら失望された。みんなの親は違かった。悪さをしても許された。失敗も許された。何をしても見捨てられることはなかった。愛されていた。子供として見られていた。羨ましかった。

私は子供だった。大人じゃなかった。兄はしっかりしていた。でも私はちっともしっかりしていなかった。しっかりしていなきゃいけなかった。何をするにも兄と同じレベルを求められた。でも私は違かった。そんなにいい子でもなかったし、そんなに頭も良くなかった。学校でずる賢いことをいっぱいした。でも先生は悪い友達とつるむからいけないと言った。違かった。私がそうしたかったからしていた。いっときの気の迷いでもなかった。気づいて欲しかった。そんなにいい子じゃないことを。いい子じゃないと価値がない私を。いい子じゃなくても許されたかった。

おかしくなった私に父親は言った。「どうしたんだ。何でそんなふうになっちゃったんだ。」何でそんなふうになったか、じゃない。元からそうだったんだ。何でもそれなりにできてしまう器用貧乏に隠されていただけで、ずっとそうだった。親が私のことを上辺でしか見てなかっただけで、ずっとそうだった。

学校や家は私の苦しみの一部に過ぎなくて、本当は私は自分という存在に失望しているんじゃないかと思う。生きることが苦しいと思う。こんな自分に一番失望している。親も先生も悪くないかもしれない。いい子じゃないのに、「大丈夫」を繰り返したのは自分だった。自分を騙してきたのは自分だった。

だから、環境を変えても何も変わらないと思う。自分は一生ついてくる。何処に行ってもついてくる。一番離れたい存在なのに。これは私の問題ででも私はこの問題の解決の仕方がわからない。でもそれが何?とも思う。ただ生きてただ死んでいく。それならもう何でもいいなと思う。ただ毎日みんなと同じように大人のふりをして生きる、一生大人を演じて生きていく、空気になる、社会の歯車になる、それだけできたら十分じゃないか。人生で何かしたいことなんて特にない。そういうものを目指すから苦しくなる。ただ生きてただ死ねば人間として真っ当に生きたことになる。何も成し遂げないけど何も悪いこともない。可もなく不可もなく死ぬ。せめてそれだけは許されたい。

朝の9時から夕方の5時まで、ずっとずっと泣いた。休んだのは良いものの、家にも帰りたくなかった。電車で、街を歩いて、カラオケで、映画館で、また街を歩いて、また電車で、バイクに乗って、泣いた。涙は際限を知らなかった。何処にこんなに液体が隠れていたのかと、不思議に思うくらい、泣いた。何を見ても涙は出た。声を出して泣いたのはいつぶりだろうとかそんなことを考えて、また泣いた。カラオケは歌いもせず歌を入れては、いつも聞き流してた歌詞ひとつひとつに泣いた。ワンワン泣いた。呼吸が乱れた。あと一歩で過呼吸になりそうな、今まで味わったことのない苦しさを感じて、ビニール袋を持ってないことに気づいて必死に耐えた。震える身体とは反対に頭は冷静だった。映画館は泣ける要素が一つもないのに泣いた。やっぱり何処かおかしかった。

それなのに、夜中、何があったわけでもなく急に涙の熱は冷めた。心臓が苦しくなったり勝手に涙が出たりして、どうしたら良いかわからないことがずっと怖かった。おかしくなっている自分が一番怖かった。でもそれが止んだ。だから余計に何が苦しかったのかわからない。昨日までの自分が別の人間だったような、何かに取り憑かれていたような、そんな感じで今日を過ごした。

昨日心を離すまいと必死に悶えてた。その手を今日は簡単に離して心にサヨナラをしたからもう全部どうでも良くなった気もするし、心が戻ってきて落ち着いた気もする。どちらなのかわからない。"無"という漢字程今を表すのにピッタリの言葉は他にない。

心配をかけたくなくて誰にも話さなかったわけじゃない。私は「そんなことで」と思われるのが一番怖かった。弱っている自分を否定されたら死にたいと思うに違いなかった。誰にも話さないことは私にとって最後の自己防衛だった。誰も信用できないから、自分の味方でいてくれる保証がないから、話さなかった。それだけだった。

泣いてた理由と言えそうな思いつくことを話していたら、全部くだらないな、と思った。そんなことで何で泣いてたのか自分でもアホらしいと思った。苦しんだ記憶はもう既に頭から消えていたから、話したことなんて一部に過ぎなかった。多分防衛機能が働いて勝手に記憶がなくなったと思う。私はいつも自分に都合の悪い記憶をなくす。無くしたくなくても無くす。そういう仕組みになっている。項目だけが羅列する。だけどその中身は何も覚えてない。

辛かった記憶も、苦しいと感じてたことも、ぜんぶ、「ソレガナニ?」と思うようになった。自分の住んでる街の形を想像して、都道府県の形を想像して、日本の形を想像して、地球を想像したら、本当にどうでもいいなって思った。

だけどやっぱり食欲はないしやる気もない。働いてる時もボーッとしてた。意識は何処にもなかった。ご飯は食べたけど、口に幸福感が欲しいだけで胃は全く稼働していない。だから気持ち悪くなった。それでも食べた。取ってつけたような幸せにしがみついている。何にも染みない、何も感じないのに。

あと何十年も生きなきゃいけないことが辛いと思っていた。だけど今は、何十年も生かされるなんて可哀想だなって思う。自分に起きること全てが他人事のように感じる。それで?だから?ナニ?って思う。これからどうしたら良いのかとか、どうしようとか、ずっとそんなことを考えていた日々が、遠く感じる。そんなことどうだって良い。明日も朝が来て夜が来る。それが永遠に続く。それだけなのに、何をそんなに考えていたんだろう。朝と夜の繰り返し、それだけ。何にも怖いことなんてない。

 

 

分離

心が私の一部ではなくなってしまった。一線を超えまいとして必死に耐えていた何か、最後の何か繋がっていたものが、じんわりとゆっくりと時間をかけて消えていった。その消えた日が今日の朝だった。

何が悲しくて、辛くて、苦しいのか、思い当たる節はいくつもあるのに、どれもそれだけではない気がずっとしていて、ただずっと世界が暗くて、頭は空白な日々だった。それでも心と私は同じモノで、繋がっていて、一緒に痛みを分かち合って手を取り合って生きていた。けれど、もうそれすらできなくなった。

電車に乗って動悸が始まっても、胸に手を当てながら深呼吸を繰り返して、いつも通り心を落ち着かせて、それでまた頑張れるはずだった。だけど今日はそうはいかなかった。涙が次から次へとボロボロ流れてきて止まらなかった。通勤ラッシュの時間に人目も気にならないくらい涙は止まらなくて、心はもう私の中の何処にもいなかった。何故と考えれば考えるほど涙は出てきた。理由はわからなかった。

何とか目的地まで着き門をくぐった。受付で挨拶してそのまま進んでいくつもりだった。でも、足が勝手にUターンして、受付の人に助けを求めた。顔を見たらまた涙が溢れ出てきて、でも全部は話せなくて、ただ、電車に乗ると心臓がいつも苦しくなること、今日は涙もずっと止まらなくてどうしたらいいかわからないこと、それだけを伝えた。そして、今日は休むことになった。

それからも涙はずっと止まらなかった。仕方ないからいつもの駅から一駅分歩いた。歩いているときもずっとずっと涙は流れた。無心にただ涙だけがホロリホロリと垂れ流れてきたかと思えば、急に名前のつけようのない感情全てが込み上げてきて嗚咽しながら涙をボロボロ流す時もあった。空を見上げても何処もかしこも高い建物に切り取られていて狭い空しか見えなかった。こんな狭い所で息なんかできない、窒息しそうだと思った。建物が左右から挟んできそうで怖くなった。

今冷静に考えてみると、平日の朝早くに若い女が涙を隠すこともなくボロボロ流しながら、お出かけの小さなバックには見えないしっかりとした荷物を持って、ゆっくりゆっくり街を徘徊していた事実が自分でも可笑しい。

辿り着いた駅前のカフェでこんなことを書いている。今起きたばかりのことを書いている。何故だかこの感情を忘れたくなかった。今日感じたこと全てが、いつかの力になる気がするから書き残しておきたかった。どうしても今を記しておきたかった。

幼稚な悪意

ある日突然いきなり無視をされる。不自然に目が合わない。自分にだけ挨拶が返ってこない。

小中学校では誰でもターゲットになり得た、だから、こんなこと慣れっこだと思っていた。でも本当は歳を重ねてからの方がダメージは大きかった。大人になってから無視をされるなんて考えたことがなかったから。免疫はとっくに時効だった。

正直どうでもいい人達だ。立場は上だけど、普段から関わりがないから無視をされても特に困ることはない。挨拶したり、休憩所で軽く話したりする程度の仲だ。それなのに、何故こんなにも心が痛むのだろう。

何にも心当たりがない。そもそも最近は会ってもいなかった。会話だってしていない。友達との話題にも上がった覚えはない。上がったとしても悪いことを言った覚えは全くない。だって私は嫌ってはいないのだから悪く言う理由がない。

何かしてしまったのだろうかと心が痛む。悪気はなくても、なにか、なにか相手の気に触ることをしてしまったのかもしれない。それならば謝りたい。だけど、それすらさせてもらえない。

不意に思う。無視ほど幼稚な行為はないのではないかと。相手を理由のわからない底に陥れる、全部を否定された気にさせる厄介な行為だ。同じ傷つく行為でも言葉で罵られる方がまだ少し救いがある。言われた部分だけが傷になるからだ。無視は存在全てを傷つける。そのくせ、している側は全く傷つかない。面倒な記憶として残らない。証拠を残さない。自分達は何もせず不快さを露わにするだけで相手を優位に従わせる。されている側は理由がわからないのだから、その空気に従わざるを得ない。たとえこちらに非があったとしても、根拠のない優劣関係を勝手に作り出す、最低な行為だ。

だから、ここで辞めるわけにはいかないのだ。やりたいことをやっていて、そのために今まで努力してきた。成果が出ず悔しい思いも沢山飲み込んできた。それなのに、他人のそんな行為で、何故私が辞めなくてはならないのだ。こんなことで辞めたら一生悔しい。

けれど、毎朝電車に乗ると痛み出す心臓はとっくに悲鳴を上げている。どんなに気持ちのいい朝でも電車に乗ると心臓の鼓動は鳴り止まない。身体が"行くな"という。陥れた人達は何ともない顔して毎日そこにいる。こんなどうにもならなくて悔しいことがこの世には沢山ある。つくづく理不尽だと思う。

こんな弱くて頼りない心にも、その奥の片隅の方にはまだ、負けたくない、という熱意が確かにそこに在る。毎日、機関銃や大砲を持った人々に私は刀一本で立ち向かっている、そんな気分だ。私はこの道から逸れることなく、ただ大勢全員と戦わずに、走ればすり抜けられる、そんなルートを探している。

どうでもいいこと

人の優しさに触れて心から嬉しくて幸せだと思った。もうこれ以上望むことはないと思った。寄り添ってくれる人がいる、どん底まで落ちた時に救い出そうと手を差し伸べてくれる人がいる、まだこんな自分でも頑張れるかもしれないと希望が見えた。

だけど、現実はいつもそこまで優しくない。心無い言葉、無視をされるほど親しくもない目上の人からの理由のわからない一方的な無視、なめた態度で可愛ければ許されると思っている職場の後輩、若い可愛い子が大好きな上司、阻害されたり板挟みになったりして心は疲弊していく。

どうして嬉しいことはこんなに沢山あるのに、少しの嫌なことがこんなにも心にダイレクトに響いてくるのだろう。数だけでいえば、絶対優しく接してくれている人の方が多いのに、何故嫌味な人たちの言動だけが脳内で永遠にループし続けるのだろう。

みんなに好かれる人なんていない、そんなことはわかっている。誰からも好かれたいなんてそんな大それたことは望んでいない。それなのに、人の悪意に、図々しさに、鈍さに、自分勝手さに、思いやりのなさに、正気がどんどんどんどん蝕まれていく。

優しさは強さなんて嘘だ。私の優しさは弱さしか見出せていない。弱い心しか持ち合わせていない。人に気を遣うあまりいつしか他人の目ばかりが気になるようになってしまった。自分がどう思われてるか、ではなく、相手が何で不機嫌なのか、なんでそんな言動を取るのか、自分が関係ない場合でも自分との関係性を探ってしまう。そしてその不快なオーラ全てが相手から私に受け渡されそのまま静電気のように私にまとわりつく。

もっと強くなりたい。

そればかりを願って生きてきたのに、心を崩してからというもの、ほんのちょっとがいつでも引き金になる。さっきまで良かった気分がいつでも一瞬で真っ暗になる。笑顔の気力も、作業に打ち込む気力も、人と話す気力も、ご飯を食べる気力も、歩く気力、座っている気力さえ全てを奪われる。

強くありたいと願えば願うほど、脆くなっていく心との向き合い方がわからない。

一部と全部

親は子どもの数だけ親をやり直せる。でも私には母親は一人しかいない、その瞬間でしか築けなかったものが沢山ある。それが今でも私を苦しめている。

私は、普通の、ただ普通の家庭に憧れていた。家族とご飯を一緒に食べたかった。学校であった出来事を話したかった。テストの点数を褒められたかった。悩みを相談したかった。たまには一緒にご飯を作ったりお菓子を作ったりしたかった。そんなことだけで良かったんだ。特別なことは何一つ要らなかった。

母親はいて欲しい時に家にいなかった。だから今も関わり方の正解がわからない。兄も妹も。家族は私にとって他人より気を遣う、というか気まずい存在だ。

最近の母親は、生き生きしていてとても楽しそうだ。離婚して、妹と二人で暮らしている。妹の話を私に楽しそうにしてくる。時には、妹の学校での悩みを私に打ち明けてくる。私ももう成人している。今更、妹に嫉妬しても仕方がない。頭ではわかっていても、感情はついてこない。妹の話をしてくる母親に、私だって、と言いたかった。言えなかった。だって家族にとっての妹に勝てることなんて何一つなかった。

幼少期の頃の全ては人生に大きく関わる。そんなことを知らないまま親になる人が多い。子供はペットじゃない。子供を欲する明確な理由がないまま産むなら誰も幸せになれないからやめた方がいい。可愛いから、親になりたいから、全部自分たちのエゴだ。子供の身になって考えない。生まれようなんて考えて生まれてくる子供はいない。産んだのなら、幸せにする覚悟を持つべきだ。生まれてこなければ良かったと子供に思わせるか、生まれてきて良かったと思わせるかは、半分くらいは親にかかっていると言っても過言ではない。子育てに失敗した、なんて一言で片付かない。親にとっては人生の一部かもしれないが、子供にとっては人生そのものだ。

 

 

曖昧に馴染めない

目的も理由もなくただ連絡をダラダラと続けることが苦手だ、生産性がないように感じる。会う約束も立たないまま連絡だけを取り続けるのはお互いに時間の無駄だ。

しかし、恋愛上手な友達に言わせれば、そのハッキリしない関係性が楽しめなければ恋愛は楽しめない、らしい。その曖昧さを私は楽しむことができないでいる。駆け引きが嫌なのだ。相手に試されていると感じる瞬間も、相手に直接行動の真意を聞けないことも。

付き合っている人同士ならある程度関係性はあるだろうから、相手の不可解な言動にも、どういうこと?と聞いても何ら不思議はないと思う。でも、付き合う前の段階でそんなふうに聞いたら、相手を問い詰めているようである。

連絡の頻度だってそうだ。例えば、一日に一回のペースの人だったとして急にある時しばらく連絡が返ってこなくなり、またある時何事もなかったように一日に一回の連絡が来る。それが何度も起こる。忙しいのかもしれない。でもどうもそれだけではない気がするのだ。

私は恋愛に関して人に執着するタイプではない。というより執着できないと言った方が正しいかもしれない。だから、その気がないなら連絡はいらないのだ。自分に興味がない人に関心を持てないでいる。ハッキリしないことを受け入れられないでいる。私ではなくてはならない理由がほしい。必要とされたい。私以外で埋まるポジションならいらない。そんな虚しい場所にいられない。確かな足場が欲しい。

この便利すぎる社会の恋愛に私は向いていない。手紙の文通に憧れている。「月が美しいですね。」とか言ってみたい。声が聞きたくて会いたくなりたい。こんないつどこにいても声が聞けてしまう、その当たり前に特別感を感じられない。いつまでも曖昧に馴染めないでいる。