cLi0nE37’s blog

心のゴミ箱

最後の砦

ずっと昔から、こういう自由な場所で文章が書きたかった気がする。

中高生の頃からツイッターやインスタグラムといったSNSが当たり前だった。色々な使い方ができるけれど、私にとっては自分の正直な気持ちをそのまま書けない場所だった。

学校やアルバイトのコミュニティに疲れても、その場にいない時でさえその人たちからの見られ方に縛られる。インスタ映えは私の心を満たさない。言い方は悪いが、見栄張り競争に私は興味がないのだ。本当に正直なところ、友達が休日に何をしてようが私は特に興味がない。楽しいならそれでいい。会った時にその楽しかった話を聞かせてほしい。それで十分だ。

あの場所は、一種の自己ブランディングの場所だと思う。楽しいこと、明るいこと、綺麗なもので埋め尽くされていて、それ以外のものを書いたら、病んでる、ポエマー、ナルシスト、芸能人ぶってる、そんな言葉で攻撃される。素敵なものだらけで構成された場所は、私にとって息苦しさと退屈さをもたらす。

私はもっと人間味のあるものが好きだ。本とか、映画とか、芸術とか。それらを見て感じたことや、日常で感じた気持ち、疑問、モノの見方考え方、そんなものを素直な言葉で、しっくりくる言葉で記したかった。

言葉にすると不思議と頭も心もスーッと整理される。そして、モヤモヤとして言葉にできずに行き場を失っていた感情たちが浄化される。この感覚が好きだ。誰にも言えなかった、誰に伝えたらいいかもわからなかった、でも誰かに言いたかった、そんな感情や言葉に居場所を与えてあげられる。それだけで少し心の荷物が軽くなる、明日を生きていける気がする。

 

不確かな生命

心臓の鼓動の数が寿命と関係するのなら、私は間違いなく早死にするだろう。

苦しいと感じた時、胸に手を当てると鼓動が早いことに気がついた。ここ最近の息苦しさは過度な心拍数だったに違いない。

私を苦しめるものも徐々に分かってきた。高圧的な人、プレゼン、ラインの通知、タスクに釣り合わないタイムリミット、自分に好意的ではない人の言動、やりたくないこと、長文のメッセージ、綿密なスケジュール、急なスケジュールの変更、過去に言われた受け止めきれない言葉、精神的な圧力、主なものはこんなところである。

誰しも嫌なものであることには違いないが、きっと不快な気持ちを抱くか、苛立ちを覚えるか、それくらいで済むはずだ。これまでの私だってそうだった。

けれど最近のそのものたちは、私の心臓までをも圧迫し始めている。本当に苦しくて呼吸が下手になる。特に高圧的なモラハラ、生活リズムを崩すスケジュール変更、通知音は宿敵である。

何故最近になってこんなにそれらが苦しく感じるのだろう。心には一定の水準が決まっていて、それを超えたらSOSが心臓にやってくるのだろうか、それなら私は今後もずっとこの心臓の苦しみに耐え続けなければならないことになる。気が遠い。

心が雪崩をおこしてからというもの、自分がいかに今まで自分に無関心であったかを思い知らされている。私は何が好きで何が嫌いなのかさえやんわりとしか知らなかった。知ったからといって、すぐに対応できるわけでもないが、理由がわからない苦しみには「大丈夫」の言葉さえ響かない。理由がわかれば少しは自信を持って自分に「大丈夫だ」と言い聞かせるくらいはできる。胸に手を当て深呼吸をしながら。そして毎回気がつくのだ、自分は生きているのだと。今この瞬間、この苦しい瞬間にも、私の心臓はSOSを出しながらも必死に脈を打っている。

私は思う。どうせ消える勇気も覚悟もないのなら、この戦場を生き抜くために、もっと自分を研究しなくてはならないと。苦しみから自分を守るために。心臓にも労りを込めて。

 

孤独をもたらす欲望

ただ泣く目的で映画館を利用したことがある人にしか見られない孤独と夜空。

結果が出なくてしんどくて、全部を否定された気がして、それから自分の意見を言うことさえ勇気が沢山必要になって、どうにもならなくて、電車も街も、人目を気にせずマスクに隠れてずっと泣いた。

泣いて泣いてたどり着いた先は映画館で、「マイ・ブロークン・マリコ」を観た。泣けそうな映画を見ればずっと泣いていても許される気がした。感動と関係ないシーンからずっと涙が止まらなかった。ただ、泣いた。

友達がお洒落なホテルで誕生日を祝いあったり、お洒落なランチを食べてる中、私は毎日毎日作業服みたいな格好で図面と睨めっこして模型作って何してんだろうと思うこともあるよ。

やりたいことだけど、好きなことだけど、だからこそこんなになってまでやってるのに評価されなかった時苦しくてたまらない、だって私にはこれしかないのに。
お洒落なホテルやランチ、ブランドのバッグが私を満たしてくれるわけじゃないのに、比べて凹んで馬鹿みたい。比べる要素が違うのに、なんでかな。

楽しいだけのことなんて遊び以外ないと思うし、そんなことはわかってるのに、それでもうまくいかないと惨めで、本当に苦しい。

お洒落な服を着たい、好きなコスメを買いたい、友達と遊びたい、好きな人と過ごす時間が欲しい、カフェでゆっくりしたい、好きな本を読みたい、好きな映画を見たい、可愛くありたい、でも夢も叶えたい。

欲が沢山あるから優先順位をつけて動いてるはずなのに、一番力を注いでたものが叩きのめされた時、努力が報われなかった時、抑えてきた他の欲が可哀想になるの。

だってその分野で輝かなかったら私の価値はどこにあるのって思ってしまう。見当違いだってこともわかってるけど、どこにも行き場のない気持ちが宙を彷徨って、苦しくて、誰に相談したら良いかもわからなくて、というか何から話したら良いかも、誰に何を聞いて欲しいのかもわからない。

こんな孤独な日に、寄り添ってくれる歌も映画も知らない。自分にぴったりの言葉じゃない気がして、わかってもらえてそうでもらえてないもどかしさを感じてしまう。

人に話したって楽しい話じゃない。

こんな孤独な夜を知った人にしか見られない景色があったって良いと思うんだ、例えば涙で霞んだ夜空。普通の夜空とは違った。空だけが味方な気がした。でももっと綺麗なものがいつか見たい。

 

雑草と崇拝

私はずっと綺麗で繊細な花に心を惹かれてきた。でも、最近は道路に生きる雑草に魅力を感じ始めている。

自分を守れるのも、信じてあげられるのも、味方になってくれるのも、全部自分しかいない。

頼りなくても、すぐにへこたれても、自分しかいない。

神様も仏様も信用できない。

ずっと、生まれた時からずっと、何も信じられない。歴史を学んでも、私には神様を崇拝する気持ちがずっとわからなかった。

だって一番辛い時に助けてくれない、呼んでも来てくれる訳じゃない。

見守ってくれるくらいの位置にはいるかもしれない。わからない。でも、確実に言えることは、何かをしてくれる訳じゃないってこと。

人間だってそう。

私の人生に何かを言う人が、私の人生の責任をとってくれる訳じゃない。一生面倒を見てくれる訳じゃない。

結局全部自分で尻拭って、自分で腹決めて、自分を全てから守って生きていくしかないのだ。

雑草は、図々しく栄養をどこからか得てきてアスファルトに根強く生きていた。抜かれても抜かれても、根っこだけは絶えずにそこにいた。どんなに綺麗で繊細に花開いても一瞬で息途絶えたらそこまでなんだ。

何度打ちのめされても、真っ直ぐでなくても、綺麗でなくても、立ち直る、諦めずに続ける。凄くなくて良い、周囲から認めてもらえなくても良い、立ち直り続けることが何より大事なんだと、そう思うようになってきた。

許し

お腹もすいてないのにご飯を食べる、タバコが吸いたい訳でもないのにタバコを吸う。

する必要のないことを何故かしてしまうのに、やらなきゃいけないことには手がつけられないままでいる。

やらなきゃいけないことをやらないという言い方は間違いかもしれない。「やらない」のではなく、「やれない」と言った方が正しい表現な気がする。この感覚はいつもの怠惰とは違う。大勢の人には理解されないことかもしれないけど、本当に違う。やろうとしてもできない。心がそこにはない。本当に無気力で、何もかもが空白で、すべてが重い。

それなのになぜする必要もないことをしてしまうのか、ずっと理由を考えていた。

きっと私は、何もしなくていいことが許されている時間を作り出したいのだと思う。

許しが欲しいのだ。

ご飯を食べればそのご飯を食べている時間は、ご飯を食べるという行為をしてるから、それ以外は何もしなくていい。タバコは休憩に換算されるから休憩を作り出すのに最適だ。

そんなことをしないと自分が休むことを許せない。何もしないでいることが怖くてたまらない。焦燥感と不安でどうにかなりそうなのに、なぜか心はついてこない。このもどかしさに耐えられそうにない。

だから、人から心のこもった「ゆっくり休んでね」とメッセージが来た時には本当に毎回涙が出る。

休むことが許される。それだけでこんなに心が救われる。

なぜか落ち込むと、全員が敵に見えて、ありもしない空想の言葉に私はずっと責められる。「甘えるな」「そんなことができるなら他もできる」「みんなできることが何故できない」

人から返信が来なくなるたびに見捨てられたのかとすごく不安になる。

最近の私はどこかおかしい。支離滅裂だ。なのに何故この肉体はここに存在しているのだろう。何故平気な顔してここに在るのだろう。

私はこんなにおかしいのに外から見たら普通だ、そのことがこんなにも私を苦しめている。

私はこんな弱い自分も休むことも許されたい。なのにそれを許してもらっても自分が自分で許せなくてずっとずっと苦しい。

許しは簡単じゃない。

培ってきたものの無意味さ

困った時、弱った時、人の優しさのなさに絶望する。

これは私が普段から人に優しい、優しくないに関係しない、もっと本質的なものだと思う。(私以外の人にもそうだから)

こんな時は、今までの人間関係ってなんだったんだろうって思う。それなりに手を差し伸べたこともあって、楽しい時間も共有して、でもいざとなった時に関係は全部途切れる。最初から何にもなかったかのように。

少しでも普通に生きるべきレールから外れたり、体調崩して休みを欲したり、たったそれだけでゴミを見るかのような眼差しで、「もっと頑張れよ」って顔して人を蔑む。

形式的な棒読みで心配して、内心は自分より何かができないその人を見下して、優越感に浸る。

「はいはい、お大事に」その一言で心に鋭く深い傷を残す。言葉の放ち方一つで人を簡単に傷つける。

普段ならなんともなくできることを、人に頼らなきゃいけない状況で、どんだけ勇気を出して、どんだけ藁に縋る気持ちで、助けを求めたと思う?

私にだってプライドがある。しなれて強さの欠けらもないプライドだけど。そのプライドすら捨てて人に助けを求めても、あしらわれるのなら、他に何を捨てたらいい?

まともな状態ならなんの躊躇いもなく、なんてことなく、普通に、ただ普通に、できることが今はできない。

それがどんなにもどかしくて、苦しいかなんて同じ苦しみを味わった人にしかきっとわからない。それでも想像することはできるでしょう?人の痛みに寄り添うこともしないで、自分が困ったら助けを求めるのに、人が困ってる時には見下す。こんな世の中で生きていける気がしないんだ。

消えたくない理由は増えないのに、消えたい理由だけが毎日毎日増え続ける。

無機質な人間たち

「もう限界です」と声を上げても、誰も振り返ってなんかくれない。「甘えだ」「弱い」「頑張れよ」そうした言葉だけを、私と向き合おうともせずに返されている気がする。

「みんなそうだ」とか、「それだけのことで」とか。私は「みんな」の意見が聞きたい訳じゃない。私という人間を無視して自分の知ってる範囲の「みんな」を連れてきて、「みんなもやってんだからお前もできる」という圧力をかけてくる。

私が今辛い、その事実以上に何か大切なことはあるのかな?

アドバイスや正解を求めてる訳じゃない。淡々と合理的な正解だけを押し付けられて、当てはめられて「大丈夫だ」の一言で次に進んでいくものなのかな?

例えるなら、交通事故に遭って心身共に傷を負ったとして、心はトラウマや傷が癒えてないのに、身体が先に回復して日常生活もできる状態に治ったら、「はい、大丈夫です、明日から頑張ってください」って放り出される、みたいな感じ。

事実だけを取れば大丈夫かもしれない。でもそんな単純に生きられたら苦労してない。