cLi0nE37’s blog

心のゴミ箱

心を蝕むもの

 

事あるごとに私の心を蝕むのは親だった。普段は何も感じないのに、ふとした時に蘇る記憶が今もまだ私を苦しめている。

「家族は大事にしなさい」ってみんな言うけど、そんなのは幼少期に大事に育てられてきた人が言えることだと思う。

今までの人生で親に対して温かな感情を抱いたことはない、感謝はしている、だけど、ただそこにいる、ただ親という生き物として存在している、それだけ。それ以上でも以下でもない。

小さい頃から父親は家庭内暴力が酷かった、家の障子が綺麗だったことはないし、いつ怒りのスイッチが入るか分からずにずっと怯えていた。

母親は優秀な兄が大好きだった。妹が産まれてからはより一層私は家族の輪から外されたと思う。

離婚して母親が妹を連れて家を出る時に行った一言は「あんたを連れてくお金はない」だったし、父親の言動がエスカレートして困って電話した時に言われた言葉は、「悪いけど何もしてあげられない、私とはもうなんの関係もない」だった。悪気はなかったと思う。それでも私の脳内にはずっとそのときの絶望がチラついている。

父親との思い出は楽しくないことで埋め尽くされている。楽しい時もあったはずなのに、全く覚えていない。だから、私にとって父親は他人より他人で取り立てて話すことすらない。

育ててもらってるだけありがたいとか、もっと大変な人はいるとか、色んな意見が頭をぐるぐる回るけど、一番最悪な状況の人しか限界ですって声を上げたらいけないの?っていうのが私の結論。
親がいない人と、親の暴力と心理的圧力を受けた人とどっちが幸せかなんて誰にも決められない。いまだにフラッシュバックする記憶をどう受け止めていいかわからないでいる。

不幸自慢がしたいわけでも、親がいない方がマシだったというわけでもない。誰かにとって大したことないことは、私にとって全てだったりするのに、それがわかってもらえないことが悲しい。

でも本当の本当は全部全部許したい。親だって一人の人間で、間違うことだってあるはずなのに、それができない自分が苦しい。頼りたいと思う時に頼れない。小さい頃にきちんと話をしてこなかったせいでいまだに浅い話しか話すことができない。全部を話すことは不可能だ。

こんなに人の言動にビクビクするのだって、幼少期の記憶さえなければ、こんなに生きづらい性格にならなかったんじゃないかと思う。それでも兄はきちんと生きている。自分だけがこんなにも弱い。そのことがまた私を苦しめる。だけど、兄は兄で、私は私で、同じ経験をしたからといって感じ方はそれぞれなのに、何故か基準はいつも兄にある。兄は家の物差しだ。私がおかしい、私が弱い、私が頭悪くて、私が悪い。

唯一の救いは、今まで何とか生きてきたという事実だけだ。弱くても何でも今も生きている。幼かった自分に、頑張ったね、と言ってあげたい。誰も褒めてくれなかった、誰も寄り添ってくれなかった、あの頃に。